ドイツの新聞に載りました !!

掲載されたのは、チッタウ新聞の地方版(Loebau-Zittau版) 2005年5月12日です。
「グーテン・ターク」ではなく「こんにちは」
ヴィトゲンドルフ。竹之内修がベルキクト家をはじめて訪れたのはもう20年も前のことである。
ちょうど今この日本人はここにまた来ている。

ヤン・ランゲ記者
 竹之内修がベルキクト家と知り合ったのはブダペストの市内周遊をしているときのことです。
当時1984年。「彼は休むまもなく眠っていた」とレナーテ・ベルキクトは思い出し語りました。それだからヴィットゲンドルフからの一家には当時21歳の彼が気になりました。そして興味を覚えました。「私は考えました、彼は絵葉書を彼の故郷から送ることができないかどうか」、レナーテ・ベルキクトは続けました。ついにはがきを通じて竹之内修とお互いに話をしたり、たくさん知りました。
 オーバーラウジッツ地方にこの日本人がはじめて訪れたのは1985年のちょうど聖ジルベスター(大晦日)だった。
「前もって彼は電報を私たちに送ってくれたんです。私たちが彼をベルリンのどこのホテルへ迎えに行けばいいか」とビットゲンドルフの女性は話します。もちろんベルキクト夫妻も12月31日にベルリンに着きます。どこを見渡しても極東からのゲストが見えません。竹之内修(彼の故郷三島は富士山からおよそ50kmはなれたところにある)は、その間に別のホテルにいるとホストファミリーに改めて書いていました。「すでにビットゲンドルフの郵便局は閉まっていて、電報のことは知らなかった」、レナーテ・ベルキクトをいいます。回り道をしながらついに夫妻は新しいホテルを見つけました。
 外国からの竹之内修は第一印象ついて、厳しい入国審査の前で審査官の横柄な態度に、「自分は犯罪者か?」と自問したことを今なお思い出しています。
 「うちの子供たちは以前にとても面白いことを見つけました。」
修は最初の晩の後、「地面と空の間に寝ているようだった」と思い、そのことをビットゲンドルフの婦人に伝えました。修の言うことには、ベットで夜を過ごすことに慣れていない感じだったということです。日本では、タタミというマットの上で眠るからです。
 「私たちが国境通過地点のフリードリヒ・シュトラッセ駅に別れを告げに行くとき、三人の人がそばに立っていました。」とレナーテ・ベルキクトは語ります。ビットゲンドルフの家族はすぐに悟りました、逃亡者するかもしれない人を妨げる秘密警察の協力者なんだと。
 幸運にもベルキクト家族とこの日本からのゲストはもはや今はもうこのようなことを味わうことはありません。そしてドイツと日本の友情は20年もの間続いています。これまで6回この42歳の方はビットゲンドルフの家族を訪れています。









赤いあたりがWittgendorf(ヴィットゲンドルフ)…こんなに面積広くない
   ポーランドと国境を接している。
   チェコまで何キロもない。