東ドイツ旅行記 2
初めての 東ドイツと家族
1985年12月29日〜1986年1月5日
1985年の12月は忙しかった。 すでに暮れに東ドイツに行くつもりになっていたが、12月の頭から会社の仕事で 月末までシンガポール事務所に行くことになった。 12月27日にシンガポールから帰国し、29日にヨーロッパに旅立つことになった。 今回のチケットは、YMCAのスイス・スキーツアーのAirOnly余った席を分けてもらった。 暮れにヨーロッパに行くのにチケットを取るのは大変だった。HISがないころだったし。 航路は、羽田から中華航空で台北へ向かい、KLMオランダ航空で南回りで、アムステルダム。 荷物は大きいバッグを機内に持ち込んだので、座席下に入れて足も伸ばせず、窮屈な旅だった。 南洋疲れもあって、食事もあまりとらずにずっと寝てた。 現地12月29日、アムステルダムからすぐに電車でベルリンを目指したが、ハノーバーで1泊した。 |
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東ベルリンのイルミネーション アレキサンダー広場の世界時計 商店のショーウインドウ |
12月30日 朝、ハノーバーから西ベルリンへ。 まず、ユーロセンターに行って、DDRのビザをどうすればいいか聞いた。 今回のビザは、この日ホテルに泊まる一泊分だけ。 そのあと知人宅訪問する際のビザは、持ってないし、どうすればいいかわからなかった。 聞いたところによると、警察にいって申請するようなことを言っていた。 そして、西ベルリンの動物園駅から電車に乗って東ベルリンのフリードリッヒ通り駅に。 またいかめしい小部屋に入れられ、パスポートのチェック。 入ってしまえば、どうということはない。 まず、ドイツ歴史博物館へ---------年末の休み! 菩提樹の下通りを歩いて、広場の屋台でソーセージを食べる。 ソーセージにカレーソースもつけてくれるようだったが、今回はつけず。 紙のフネだった。すぐベコベコになった。 デパートに行ってボールペンを買った。買うのに行列に並び、ショーケースの中の見本を指して、それを取ってもらって買う。 ホテルにチェックイン。 ここですることは、訪問するお宅Berkigt家の人が明朝迎えに来てくれるが、実は、ホテルが変更になった。 12月下旬にはわかっていたが、シンガポールにいて連絡の取りようがなかった。 手紙が届くのに1週間から10日かかったし、電話が先方にない。 そこで、まだ電話局が空いている時間だったので、電報を打つことにした。 電報と言っても日本でも打ったことはない。ただ仕事柄TELEXを打っていたので、 そんな要領かと思って、発信した。 それで安心して眠ることができた。 |
12月31日 大晦日=Silvester 朝、ホテルのロビーで待てど暮らせど、迎えに来ない。 会えなかったらどうしようとも思った。 待ち合わせの時間から30分くらい過ぎたときに来てくれた。 こちらは電報がついたものと思った。が、話がかみ合わない。 東ベルリンの市役所の地下のレストランで食事をした。西の人も来ていた。 とにかく家に向かうことになった。が、いったいどこなんだかσ(^_^)よくわかってない。 列車に乗っていくと、途中でポーランド領に入った。そういう時は列車は止められ 公安による点検。そのたびに1時間、出てはいるので都合2時間は止まる。 まずゲルリッツという街で降りて、そこから車で。もちろんトラバント。 暖房に質の悪い褐炭を使ってるので、国全体が硫黄っぽい臭い。 車で1時間でZittau近くのWittgendorfに到着。 子どもたちにあいさつしたり、おみやげをあげたり。 夜、隣の家の人も遊びに来て、大晦日のパーティー。 長女は友だちとディスコへ。 0時に、外で花火が打ち上げられた。それを見に外へ出た。マイナス20度。 |
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Oybinの頂上の修道院跡 |
1986年1月1日 朝、テレビを見たら、ポーランドの放送でヤルゼルスキー国家評議会議長の年始の挨拶を見た。 外は零下7度、でも暖かく感じた。帽子がないというと、注意され毛皮の帽子をくれた。 ドライブに出て、保養地のオイビンという山に行った。頂上には修道院の廃墟がある。 帰りはSLに乗ってZittau駅まで戻った。 |
Zittauの旧塩倉 |
1月2日 Zittau市内と、近くの郷土博物館に行った。 |
1月3日(木) ドレスデンへ車で行く。約2時間。 木曜のため、多くの博物館が休館日。ツヴィンガー宮殿の美術館は開いていたので入った。 マイセン陶器の美術館も入った。 聖母教会の廃墟は、ほんとうに廃墟のままだった。雪に覆われていたが。 |
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国境の駅でのわかれ 罰 金 5000円 |
1月4日(金) 午前おみやげを買って、夕方またゲルリッツ駅からベルリンへ3人で向かう。 東ベルリンのフリードリッヒ通り駅で記念写真を撮って別れた。 このとき、近くに秘密警察3人に見張られていたらしい。それを知るのはこの日から20年後のこと。 ここからが事件! パスポート審査で、この3日間のビザがないことが問題になった。 いったい三日間どうしていたのか聞かれた。マイナス10度くらいの部屋で。 なるべく英語で話すようにした。ドイツ語しゃべってスパイと思われるとまずいし。 ともかく帰れなくなるかもと思った。 1時間のやりとりのあと、国営旅行社に行ってビザを取得すればよいということがわかった。 このとき夜10時で外はマイナス20度。 小雪の舞う東ベルリンで、フリードリッヒ通り駅からアレキサンダー広場まで4km走った。 国営旅行社のインタホーンを鳴らして「Visa、Ploblem!Ich bin Japaner」と言って、開けてもらった。 若い職員が開けてくれて、ここでまたビザと滞在の行程を話すこと30分。 そしてビザをくれた。 また走って駅まで行く。(電車に乗ればよかった) パスポート審査をして今度は、スムーズに通過。ここで夜11時 西ベルリンについて、ひとまず安堵。 しかし、泊まるところが確保してない。 オールナイト映画を探して「コクーン」他をやっている映画館があったので入る、が5時まで。 まだ薄暗く寒い中、動物園駅に行って寒さをしのぎ、6時半くらいに出る全席指定の列車に乗る。 車掌に指定券がないといういうと、危ないので開いているところに座っているようにいわれ、西ドイツ領に入って、またハノーバーで降りて、乗り換えてデュッセルドルフに向かう。 Dusseldolf駅でいとこに電話して迎えに来てもらった。途中目抜き通りのカイザー通りを通ったときは、「オー、資本主義だ」と内心叫んでいた。 |
デュッセルドルフでいとこと |
1月5日 7時くらいに駅に行ってアムステルダム行きを探したら5分後に出発で、これを逃すと飛行機に 間に合わない。急いで飛び乗って、帰国の途に着いた。 |