港のメリーさん

準備稿 まずはテキストのみ オフラインかプリントして読んでください)

 メリーさんが横浜を去ってはや5年。それでもメリーさんは伝説の中で、
 今なお人々の話題に上っています。
 新聞のコラムに載ったメリーさん情報を載せます。

※2001年10月〜12月横浜市内各区で五大路子さんによる
       『横浜ローザ』が上演されました。
       チケットも完売で、σ(^_^)も都筑区公会堂で12月13日に見に
       行きました。
      ※2002年8月15〜17日横浜赤レンガ倉庫にて『横浜ローザ』が
       上演されました。
        15日雨の中、見に行きました。中田横浜市長が来場していま
       した。エライ!

りんと生き抜いた伝説 ハマのメリーさん 2001年7月15日  読売新聞 全国版
メリーさんの消息            1996年5月26日  読売新聞
ミナトのメリー              1996年4月18日 神奈川新聞
「照明灯」より              1996年  春    神奈川新聞

映画「ヨコハマメリー」
 初上映 2003年4月13日 横浜赤レンガ倉庫にて

監督=中村高寛 撮影=中澤健介 制作=片岡希 撮影応援=山本直史、出川雅康 MA=濱田豊(TSP)
編集協力=白尾一博 写真映像=森日出夫 制作=人人フィルム 協力=フィルムハウスアマノスタジオ
出演=永登元次郎、森日出夫、清水節子、団鬼六、広岡敬一、山崎洋子、杉山義法、五大路子 他

戦後の横浜とメリーさんが関わってきた人たちの思い出。とくにメリーさんに惜しみない援助をしてきたシャンソン歌手の永登元次郎さんの思いの映像化。

σ(^_^) 2003年11月22日(土) 横浜にぎわい座(野毛)にて午後6時から、この映画を見てきました。
まず五大路子さんがどこかの女将らしい人に挨拶しているのを見つけました。(周りの人は五大路子に気がついてないみたい)その女将は旧根岸屋の女将であった。
この映画の中で判ったことは、メリーさんの生年は1920年だということ。戦後横須賀に現れて、横浜には昭和37年ころにやってくる。
横須賀の頃から奇抜な格好で大きな帽子をかぶっていて、「皇后陛下」と呼ばれていた。横浜に来て「キンキラさん」とも呼ばれるようになった。
1990年頃一度映画を撮ったのだが、そのフィルムは盗難にあってしまい、現在も行方不明。これはメリーさんの同意のもとで作っているので、もし発見されれば大変なことである。
さて、2003年春現在、メリーさんは健在である!
素顔も整っている。
写真家の森日出夫さんの言葉「素敵な人とは、心を打つ人」

りんと生き抜いた伝説 ハマのメリーさん

               2001年7月15日 読売新聞 全国版

白塗り白いドレス
異形にも気品と誇り
戦争そして進駐…

 その人は顔を真っ自に塗っていた。白いドレスを着ていた。口と靴の赤を際だたせ、横浜の街をよく歩いていた。戦後、駐留した米兵の相手をして過ごしてきたらしい。「ハマのメリーさん」と呼ぱれていた。
        *         *
 ふるさとの横浜を写し続ける写真家、森日出夫さん(54)はメリーさんが気になる。その写真展を開いたら、多い日は二千人以上も詰めかけたのはなぜだろう。
 初めて見たのは二十代、伊勢佐木町だった。異形に驚きはしたが、気品も漂うのが不思議で、レンズを向けるのがためらわれた。
 記憶を記録するのが仕事と思う。横浜の変ぼうは激しい。街で見慣れ、風景の一部にも感じていた人を写真にとどめたくなった。九三年だった。
 「メリーさん」と呼びかけたら、「はい」と答えた。声は少し高めで、上品な話し方だった。
 絵が好きなようで、展覧会の受付で一緒になったことがある。本名なのか、漢字の署名は達筆だった。世話になった人には、丁寧な礼状を送ったり、お返しを届けたりもしていた。
 近年は住む家もなく、雑居ビルの廊下がねぐらだった。いすを二つ向かい合わせ、器用に寝る。手も足もきちんとそろえていた。
 そんなメリーさんを収めた写真集「PASS」を九五年に出した。通り過ぎていく、伝えていく、という意昧を込めた。
 うち約四十点を選び、今年二月に伊勢佐木町で写真展を開いた。「私は馬車道で見た」「横浜駅の西口にもよくいた」。互いに知らない人同士が写真の前で語り合う姿に、都市の引力のようなものを感じた。
        *         *
 ハマっ子の女優、五大路子さんがメリーさんを初めて見かけたのは十年前だ。腰が曲がっているのに、りんとして、プライドをたたえた目で前を見据えていた。強い存在感に、「私はなぜこんな姿でいるのか。どう思う」と問いかけられたような気がした。
 その答えを求めて、足跡を追い始めた。おしろいは何を使うのだろう。探し出した化粧品店で聞くと、以前は外国製だったのに、今は五百円の国産だという。それでもドレスがこぎれいなのはなぜか。すべてクリーニング店に預け、その時々に着るものを、「第ニイブニングを出して」などと言って取って来る―。
 五年間の調査を基に、メリーさんがモデルの独り芝居「横浜ローザ」ができた。戦争で夫と離ればなれになり、食べるために横浜に来て……。それは戦後史のある断面でもあった。
 九五年、メリーさんに会って「芝居を」と申し出ると、ニコッとして「ああ、そう」。握り交わした手の柔らかさ、冷たさが心に残った。
 舞台は九六年の初演から間もなく百回になる。横浜市文化賞奨励賞も受けた。十一月からは、横浜の全十八区中十六区がリレー公演をそれぞれ主催する。「メリーさんは戦争、進駐と、横浜が激動した時代の一つの象徴なんです」(長岡英昭・栄区長)
 五月のある日、タクシーに乗ったら五十年配の運転手が「五大さんだろ、ローザの」と話しかけてきた。「おれは若いころワルでね。メリーさんと親しかったんだ。困っている若い衆にやさしくしてくれたよ」
 思わず打ち明けた。
 私はメリーさんを演じても、彼女の本当のつらさは知らない。お嬢さん育ちで何がメリーか、って言われたこともある。これでいいのか。
 「いいんだ。メリーさんの思いをかけらでも伝えたいなら、堂々とやりきってよ」。そう言ってくれた。
       *          *
 メリーさんは四年前、横浜から姿を消した。身寄りの住む遠い所で安らかに暮らしているらしい。もう八十歳になったはずだ。   (佐藤 薫)

メリーさんの消息

                 1996年5月26日 読売新聞
 彼女の名は「港のメリーさん」。戦後、故郷を離れ、東京、横須賀などを渡り歩き、横浜は伊勢佐木町で米兵相手の娼婦をしていたとされる。戦後五十年を経てなお、暗い時代の影を引きずったまま、夜の街に姿を現していた。
 真っ白に塗られた顔、濃いアイシャドーでくま取られた目。年で曲がった体を真っ赤なロングドレスに包み、買い物カートを押して、横浜の街を歩いた。
 そんなメリーさんを見かけなくなって約半年。「昨年末に救急車で運ばれた」「病院で死んだ」…。様次なうわさがハマの酒場に飛び交っている。
 取材を通じて知った消息を伝えるべきだろう。
 彼女は昨年末、自然豊かな故郷に戻り、優しい弟夫婦の世語になっている。患っていた白内障も手術で完治した。寝ていることが多いが、耳が遠いだけで、いたって健康だ。弟嫁によると「もう横浜へ帰ることはない」という。
 奇異の目にさらされた半生だったが、彼女の愛すべき人間性を知ってもらいたい。
 飲み屋でトイレを借りる時は、主人に缶コーラを手渡した。行きつけのレストランの女子従業員へのクリスマスプレゼントを忘れなかった。県庁ロビーで昼寝をしたことも多かったが、前知事の長洲一二さんに対して「西岡雪子」の仮名でお礼の年賀状も出していた。
「彼女はハマの風景の一部だから」。だれかが言った言葉を思いだす。

ミナトのメリー

                1996年4月18日 神奈川新聞
 白塗りの顔、白いドレス、大きな紙袋…。かつて米兵を客とした街の女の行く所々には、ささやきが波紋のように広がった。「おっミナトのメリーだ」
 横浜中心部であのメリーさんの姿が見られない。彼女に何かと世話を焼いていたシャンソン歌手に聞いてみだ。昨年の暮れ、メリーさんは転んで、救急車で病院に運ばれた。ところが数日後、入院先から、こつ然と姿を消す。最後は横浜市中区福富町の雑居ビルの廊下往まいだった。エレベーターのボタンを押して、チップをもらっていた。視力が衰え、化粧をすると歌舞伎の隈(くま)取りのようだった。
 自称大正十年生まれ、ことし七十五歳。周囲が見かねて生活保護を受けさせようとしたが、住民票がなく果たせなかった。
 折もおり先日、東京で女優の五大路子さんが、メリーさんをモデルに一人芝居を演じた。日本の繁栄をよそに戦後を背負って真っ正直に生きた人間として描かれていた。芝居がはねると、メリーさんとかつて同業だったと思しき老女三人が楽屋を訪ねて来た。しばし涙を流していった。
 彼女は消えても、今なおメリーさんは生き続けている。(加) 

照明灯から

            1996年春 神奈川新聞
「港のメリーさん」をご存じであろうか。無名にして有名。横浜の盛りり場を白塗り、満艦飾の老女がヨタヨタと行く。付近を行き交う人々はさーっと進路をあける。ベタ白の顔を前方に据えたまま、老女は何も見ず、何も語らない
 彼女の背後には、その航跡とともにひそひそ話の泡がプシュプシュとはじけ、数十秒後に街は元に戻る。ところが、横浜駅周辺でも伊勢佐木町でも馬車道でも、このところメリー女史の姿を見かけない。足腰が衰えたか気力がなえたか…と案じていたが、変わりなくやっているらしい
 先ごろ写真集「ハマのメリーさん」〈フィルム・ハウス)を出した写真家・森日出夫さんの話では、先週はベンチに腰をかけて演歌をうなっていたという。ロングスカートに金髪。盛大な西洋的化粧の主が好むのは、ミュージカルの主題歌などではなく日本の演歌だそうだ
 「メリーさんは風景です。ほくは風景を撮った」と森さんはいう。写真集には、歩き、たたずみ、鏡と向かい合い、体を丸めてまどろむメリーさんがいる。それは気ままな猫の姿態を思わせる。写真集を出したのは売る目的でなく、五百部ほど刷ったが、残部はほとんどないという
 よそ者にとって横浜ほど居心地のいい街はない。偏見をもたず、だれでも受け入れてくれる。横浜だからメリーさんの居場所がある。…と、巻末の対談で作家の五木寛乏氏は語っている。横浜は異端を拒まない。言い方を変えれば、横浜が愛されるのは「軽さ」ゆえかもしれない。

関係リンク  メリーさんの手紙(山崎洋子)