『新島炉ばなし』より

 新島観光協会 武田幸有 昭和37(1962)年 昭和49年増補改訂版
アシカ
 つまり「海驢」のことである。
 辞書を引くと 「北の海に棲む大形のけもの。体はくらい茶色で足はひれの形。
毛皮を利用する」とある。
 そのアシカが、以前には暖流で囲まれた南の島、新島にも棲んでいた。場所は
主として式根島の周辺で、地図を開くと式根島の南西に「海驢立鼻」 という岩礁
があり、このことを裏付けている。
 アシカは毎年春先になると子を生んだ。島人はその子を捕えてきては食べた。
なかなか味のよいものだったという。明治中ごろまでは一度に10頭から20頭も
つかまえてきたというから、相当数のアシカがいたものと思われる。 まれには昭
和になってからも見た人があるという。
 この話を提供してくれた肥田徳松氏も、若いころアシカ狩りの経験があり、以下
は氏の体験談である。
 新島の南西へ動力船で10時間ほど行くと「銭津」 という岩礁がある。この岩礁
にアシカがいるということを、近くを航海してきた船の乗組員から聞いた氏は、さっ
そく仲間を誘ってアシカ狩りに出かけた。 氏が30歳のころというから大正のなか
ごろと思われる。
 当時、島には、軍からあずかっていた三八式歩兵銃が12丁と弾薬千発があった。
これを利用しようと、氏および仲間は「試射」の名目で船に持ちこみ、前日の夕刻
出発した。
 当日、ちょうどアシカが岩に上って「日なたぼっこ」をするころあいを見計らって、
船を近づけると、いたいた、100貫(375キロ)の上もあろうかと思われるのが2匹。
1頭の方がグンと大きかったので、おそらく夫婦のアシカであろう。氏とその仲問は
息を殺し、アシカに気づかれぬように静かに船を近づけて、じゅうぶんに狙いをつけ
て撃った。あたった。
 大きい方がモンドリうって数十メートルの海にとびこみ、そのまま潜った。
 続いて第二弾をかまえる間もなく、他の一頭は逃げた。
 銃をおろし、船を近づけて、先の一頭がとびこんだあたりをくまなく探したが、つい
に見つからなかった。
 急所をはずれて逃げられたのかもしれない。あきらめて一同が島に帰ったあと、
何日かして隣の神津島の船が、そのアシカを拾いあげたという。

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